九番通路

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廃棄簿

市場外れの冷蔵倉庫の夜勤手当は、時給九十円の上乗せだった。僕はその九十円が欲しかった。日中は派遣先を転々とするばかりで、住まいは定食屋の二階の相部屋。夜勤なら、クリップボード一台と重ね着二枚で、十一時間を独りで過ごせる。春まで続ければ、駅前の不動産屋の上の部屋の敷金が貯まる。最初の冬、僕はそう計算していた。

傷んだ商品は、事務所のドアの鎖に繋がれた緑の布表紙の帳簿——廃棄簿につける。棚卸しのほかに仕事らしい仕事は、それだけだった。破れたポテトの袋、潰れたトレー、輸送中に傷んだヨーグルトの一ケース。一行書いて、スタンプを押して、ゲートの白線の外まで運び出す。損失はその夜の数字に出る。横山課長は帳簿をきちんとつける人間を好んだ。僕もきちんとつけた。あの倉庫で、こちらの思い通りに動くものは、その帳簿くらいだった。

九番通路には果物が入っていた。

三週間のあいだ、それは何でもなかった。消費期限が一月十四日のいちごが、二月五日になっても、粒はしまったままだった。香りも、あった。表示ミスとして処理しておいた。課長は読みもせずに頁へ判を押し、まずプリンターのせいにし、次に仕入れ先のせいにした。いちごは火曜に出荷された。翌日かかってきたのは、仕入れた店の電話だった。その年いちばんのいちごだった、と。二月の『その年いちばん』など、たかが知れている。それでも、ということだ。

それから、ねずみのことだ。

九番通路の入口にかかったねずみ取りに挟まって、ねずみは半分死んでいた。後ろ足が一本、蹴っている。残りの体は、もう終わっていた。見つけたのは安田さんだった。安田さんは現場係長で五十八歳、ロッカーの内側に娘たちの写真を貼っていて、何事にも時間をかける人だった。自分の心臓にも、たぶん。彼はしゃがみこんで「かわいそうに」と言い、形式のとおりにやれ、と僕に言った。帳簿に一行、ねずみ、破損、と書いて、廃棄と一緒に外へ運び出す。それが手順だった。

だから僕はその一行を書き、スタンプを押して、かごを抱えて白線の外、風のなかへ出た。

蹴っていた足が止まった。ねずみは自分の速さで死んだ。もうほとんど死んでいたから、一分もかからなかった。ごく普通の死に方だった。僕はシャベルを持ったまま、煙のような息を吐いて立ちすくんで、自分がいま何を整えたのか、どうしても言葉にできなかった。一匹の動物が、ただ一度の普通の死を許されるのに、三日もかかったのだ。

九番通路

その二月、僕は指を切った。崩れた木枠の角で、左手の関節、親指の爪一枚分。クリップボードに血を落とし、巻いて、数を数え続けた。あそこで負った傷は、体が温まり始めるときにうずくものだ。この傷は、何ともならなかった。何週間たっても、最初の一分のままだった。開いて、清潔で、縁が暗く、かさぶたもできず、化膿もせず、治りもしない。クリスマスに姉の顔を見てから、人には見せなくなった。

安田さんが倒れたのは三月九日だった。九番通路の奥、十メートル。遅いラズベリーと、いちごのあいだ。

救急隊の診立ては、大動脈解離だった。壁が裂けていく種類のやつで、自然の速さで進めば手の施しようがないもの。ただし、裂けきってはいなかった。白線の内側では、何事も終わらないからだ。彼はコンクリートの上に横たわっていた。上着を半分に敷かれて。顔は灰色。そして、息をしていた。浅い呼吸を、ひとつずつ。どの息も、同じ息だった。腕に確保されたルートは何にも効かなかった。彼の体のどこにも、もう何も動いていなかったのだから。悪化も、しない。

保たれている。裂け目のままで。

腕時計は倒れた拍子に割れていた。それでも秒針を、回していた。恥ずかしそうに。隊員二人がカートを白線まで押していって、ゲートに万里子さんが立った。

万里子さんは四十一年、夜勤を続けてきた人で、僕の最初の一週間を教わったのもその人だ。タイムレコーダーの横の写真は、てっきり娘さんだと思っていた。社内報の一九八九年、パーマの前髪、猫目の眼鏡。彼女はカートの手すりに手のひらを一枚あてがって、隊員のほうを向き、倉庫の温度を確認するときと同じ、いつも通りの声で言った。このまま白線を越えさせたら、建物が彼のために保っているものが、全部、一度にここで届きます。それを引き受けるベッドは、ありますか。年長の隊員は万里子さんを見て、安田さんを見て、それから自分の時計を見た。

それを引き受けるベッドは、どこにもない。

一九七四年からゼロ

帳簿のことは、その夜、事務所のストーブで教わった。一本棒の、あのストーブだ。緑の頁が続く。彼女の字は一九七〇年まで遡る。保たれたまま白線を越えたものには、止まっていた時間が一挙に届く。ねずみはその小さい方を見せてもらった。人間なら、一歩のあいだに何ヶ月分も届く。けれど、帳簿にしかるべく書かれて、スタンプの押されたものは、冷蔵はそっと手放す。時間が、自分の歩く速さで戻ってくる。あの冷蔵は帳簿を、温度計を読むように読んでいる。僕たちに従っていた。今も、従っている。終わっていいものを、僕たちが帳簿を通じて教えてやる。そういう約束だと受け取っている。廃棄の欄は、ゼロが続いている。一九七四年の三月から、ずっと。万里子さんがその意味を理解した週に、書くのをやめたからだ。冷蔵は、彼女の几帳面な字を約束として受け取った。

3/9 安田 九番通路 廃棄せず 保つ

――まりこ

これが安田さんだ。診断書のすべてが、これだ。僕はいつでもこの下に一行、書き足せる。ペンは、日付スタンプの下の引き出しにしまったままだ。毎晩、それを確かめてから鍵を閉める。

事務所の台帳では、安田さんは常勤の夜勤への異動になっている。その書類を打ったのは僕だ。娘さんたちが日曜に来る。日付スタンプの横には、テープで名前の貼られた椅子がある。下の娘がスマホから一章、読み聞かせる。安田さんの呼吸はそのあいだも小さな律動を保っていて、一時間、ひとの息がひとつ。それが慈悲なのかどうか、僕にはもう言い切れない。動いているのは目だ。その目の後ろで、何かが黙って計算を続けている。それがこの人の、動く部分のすべてだ。

僕の関節も、ふさがらないままだった。ただの擦過傷だ。歩いて病院へ着く速さで運ばれれば、手はたぶん助かる。白線から駐車場までの一秒で半年分が届けば、話は別だ。新しい子がじろじろ見ないように、絆創膏をしている。冷蔵に気づかれるのは、冷蔵に気づく側の人間なんだ、と万里子さんは言う。自分が保たれているのは、いい包丁を手元に置いておくのと同じで——仕事のためと、手を気に入っているから、と。治るっていうのは、一種の終わりなんだよ、と彼女は一度だけ言った。あの子は、終わりというものに賛成じゃない。

四月のことだ。彼女は帳簿を僕に預けた。今年でなくていい、と言った。ただ、彼女の名前だけが書かれた、下の空いた頁がある。いつかの冬、足が安田さんの心臓みたいなことになったら——保たれるほうには、一度目も二度目も、本人の許しは要らないのだ。ちゃんとやってもらいたい、と彼女は言った。記録して。スタンプを押して。日当たりのいい日に。時間が戻ってくるのを自分の速さで感じて、残りを、バイパスの音の届かないところで使いたい。

敷金は、貯まっていた。約束の春までに、ちゃんと。

部屋は別の人のものになった。僕はもう一年、夜勤に署名した。僕たちを可愛がるものが、何もかも可愛いがってしまわないように、誰かがそこにいないといけないから。それに、僕のこの手も、まだ廃棄の扱いになっていない。いちごが入荷すると、僕は一パレット、九番通路に一週間だけ余分に置くことにしている。期限が切れてから、帳簿の目の届かない、いちばん深い冷えのなかへ。

出てくるのは、いつも完璧ないちごだ。毎回。誰が食べても、その年いちばんのいちごになる。