遠回り

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農協の歩道橋

訪問看護のステーションを出る前、毎晩同じ計算をしていた。利用者六人、十九キロ、自転車で、雨に降られなければ九時半までに終わる。運河の町の夜間訪問は、車の入れない道の上に成り立っている。土手の自転車道、神社の地下道、貨物線の踏切。私の訪問計画は、その近道の上に組まれていた。夜のインスリンが三人、寝たきりの片まひが一人、それから園部さん。八時四十分に注射を打つ。夕食が遅い人で、見栄はそれより早かった。

最初に消えたのは、農協裏の歩道橋だった。九月十三日の火曜日、午後八時十二分、快晴。農協の脇道をベルを鳴らしながら下りてきた。暗渠のところで必ず吠える犬がいて、犬はいた。暗渠もあった。橋がなかった。工事で閉鎖されたのではない。落ちたのでもない。砂利道が草に続いて、草が向こう岸まで続いていて、そこが一度も人に中断されたことのない畑であるかのように見えた。サイコンの表示では、迂回は十一分だった。解体工事だろうと思って走り続けた。インスリンは橋を待ってくれない。

帰りに農協の掲示板を確かめた。防除の予定と、米のコンクールの新聞切り抜きが貼ってある。お知らせはなかった。ハンドルバッグの地図には、相変わらず橋が載っていた。運河を渡る、確信に満ちた二本の線。

神社の地下道

水曜日に消えたのは神社の地下道。木曜日に消えたのは貨物線の踏切。私は数え始めた。

一晩に一本。二本消えることはない。私が自分で走ったことのない道が消えることもない。何かが私の訪問計画を壁に貼って、使う順に拾っていっている。利用者六人、十九キロ、その順番で。

携帯の地図は私より長く持ちこたえた。地下道は、私がハンドルを切った瞬間まで載っていた。それから、何も約束した覚えはないという顔で経路を再計算した。紙の地図のほうは何も学ばなかった。二つの地図のあいだで、私は閉まった扉を確かめるみたいに、柵と畑の端に自転車を当てていた。

誰も何も言わなかった。ここは信じてほしい。貨物線の踏切を使っていた鮮魚の軽トラは、黙ってバイパスに回っていた。運転席の肘が窓から出て、タバコの火はいつもどおりだった。一人目が生まれる前から顔見知りの母親は、橋のあった土手に沿って男の子を二人連れて歩き、堤防の上で向きを変えると、そのまま行ってしまった。薬局で聞いてみた。神社近くの解体は年内まで続くのか。薬剤師は注射針を数えながら答えた。「解体?」

ガーゼを買って帰った。

一九九八年の地図

園部さんは八十四歳で、畳の机の上に父親の代の道路地図を広げていた。一九九八年に印刷された町。折り目が布みたいに柔らかくなっている。十月、暗くなる前に呼ばれて、ランプの下で両手で広げてみせられた。

鉛筆だった。消えた道のすべてに、線が引いて、日付が書いてあった。

五月二日 果樹園の小径
五月九日 火葬場への道
五月十六日 海堤の道
六月十一日 市場通り

「三年になる。わしは週に一本だ。年寄りは進みが遅い。行く場所が少ないからのう」

地図の上の運河を、腫れた踝を確かめるときと同じ指で、ゆっくり叩いた。

「町が小さくなっていくんじゃ、看護師さん。いや」と言って、薬の量を間違えないときと同じ慎重さで、自分を訂正した。「町じゃない。道じゃ。わしらの道が」

地図には、消し線だけが載っていたわけではない。運河の真ん中、中町三丁目のど真ん中に、小さな鉛筆の丸があった。私の通り。私のマンション。私が橋の一枚も数え漏らす前の、六月の日付が振られていた。

「あんたも一つ、始めたほうがええ」

そして、借金を返すときのような顔で、鉛筆を畳の上へ滑らせてくれた。

線路橋

十一月には計算が変わっていた。利用者六人、三十一キロ、雨に降られなければ十一時まで。九日には、園部さんの地区に通じる渡りが二つ残っていた。十日には一つ。線路橋の側道だった。書類の上では自転車通行止め。実際には誰もが通って、手すりの下でがたがた鳴った。

私は側道の入り口に、自分にまだ正直でいられるあいだだけ、立っていた。引き返せた。ステーションに電話して、朝のシフトに注射を任せる。計画は生き残るし、園部さんも、おそらく生き残る。あるいは渡って、硬貨のようにその道を使い切る。何が誰の予定表を読んで道を拾っているのか、私の使った道がどうなるのかを、あの頃にはもう知っていた。

夕食は遅れていた。見栄のほうが早かった。私は渡った。

訪問はいつもの順番で通した。いつもの順番が、二人に残された最後のいつものものだったから。血糖値。注射。記録簿。テレビの気象予報士が、近づく前線を詫びていた。九時四十分、園部さんは戦争から持ち帰った懐中電灯で玄関まで送ってくれて、雨が一枚の灰色の幕になって運河を横切って、側道が消えた。

冠水ではない。線路はあった。手すりがあった。ナトリウム灯があって、ガラスに蛾が当たっていた。橋の口から道路が草へ、柵へ、畑の端へと続いていた。農協の土手と同じ、急がない縫い目で。ただ、この草は私のものだった。

彼は懐中電灯を上げなかった。私と同じだけの時間、土手を見て、それから家の中へ引き込んで、廊下から大きな声ではない声で呼んだ。「今朝、客用の布団を干しといた」

消えた道より、そちらのほうが効いた。六月の時点で、彼はすでに私の通りを丸で囲んでいた。私がどちらから来るかを知っていて、傷が跡になるのを知っているのと同じ確かさで、私が最後にどの渡りを使い捨てるかを知っていた。

台所の窓からは、私のマンションが見える。運河を六十メートル、線路の盛り土、中町の商店街の裏側。四階の私の窓。ベランダに置いたままの観葉植物が、今夜の雨を飲んでいる。あの距離なら声は届く。誰も叫ばない。地図が徒歩十分と主張しているものに向かって叫ぶのをやめた声が、両岸の地区にはもう満ちている。

今は園部さんの八時四十分を私が打っている。朝の看護師は、まだ道の残っている南側へ、遠回りをして回っている。机の上には地図が二枚。一枚は折り目が柔らかく、もう一枚はまだ硬い。私の地図には、最初の四本の線に日付が入っている。小さくなっていたのは、町ではなかった。私たちは一晩に一本ずつ、互いから引き算されていく。残るのは、地図がまだ丁寧に繋いでいる島だ。

布団は温かい。