昭和四十六年の綴
萱島市役所の書庫は地下にあった。窓口の一階下、昼光の二階下。鉄の書架が八列、除湿機が冷蔵庫くらいの大きさで隅に居座り、照明のスイッチには真鍮の覆いがついている。理由を知る者はいない。私の机は四列目の突き当たりで、平成二十一年の三月から九月まで、そこで白い綿手袋をはめ、除票の綴をフラットベッド・スキャナーに送り続けた。国の補助金つきの電子化事業だった。四十秒に一枚、週に十綴。
ノルマがものを言う仕事だった。派遣の契約は六か月で、県から来る監査の男は毎週金曜に綴の数を数える。十月の審査までに四十綴、訂正と索引を済ませて納めれば、市は正規職員の採用を内部から行うことになっていた。一階の三番窓口。共済組合。自分の椅子。
九月の第二火曜、私は昭和四十六年の綴、二百十二ページから三百四十ページを撮った。三月三日から四月三十日までの死亡。木曜、傾いた一枚を撮り直そうと同じ綴を開いたら、堤梅吉の欄が変わっていた。死亡の日は三月三日のはずだった。四日になっている。鉄ボールインクは茶褐色に老けて、古いインクが紙に沈む具合に沈んでいて、一画の縁から薄れていた。
火曜に私が焼いた画像は「三日」。目の前の綴は「四日」。
見間違いだとことにした。流していたのだ、三を四に、四を三に、往復で二度。訂正後のページを焼き直し、作業台帳の余白に「原本照合済」と書いて、昼に出た。
三番窓口
堤の未亡人が窓口に来たのは月曜で、三輪さんの昼の代わりに入っていたときだった。
助手席に生命保険の支払拒否通知、ハンドバッグに退院証明書。二つの書類は一日だけ食い違っていた。契約の始期は三月四日。除票は三日。保険の窓口は電話で「記録は変わりませんので」と言い、それから謝った。
昭和四十六年の綴を運んで、ページを開いた。自分も同じ謝り方をするつもりで。そこには茶色の「四」が、杭のように立っていた。
三十二年窓口をやっている三輪さんが証明を交付し、私は綴を押さえていた。千二百万円。市庁舎の石段で、未亡人は電話にそう言った。天気の話でもするように。
その夜、私はまだ名前のないことをした。訂正を電子索引へ打ち込み、「真と認めて照合済・田」と刻んで、綴を四列目の棚へ、きりの悪い電話を置くみたいに背を向けて差した。
昭和四十三年の事務処理要領は、参考棚の緑のバインダーだった。審査向けにその週に読んだ。十四条はこうだ。
真実であることが優越する証拠によって証明された記載は、記録事務官が自己の筆跡により訂正し、当該記録を真として受理した職員の確認を得るものとする。
要領の隣には職員名簿が並ぶ。戸川。記録事務、昭和三十六年から五十四年。昭和四十年代の綴の訂正欄に並ぶ、細く右へ傾く字は、どれも戸川のものだった。彼の載る最後の名簿の末尾に、タイプ打ちの一行。昭和五十四年十二月、在職のまま死亡。死因も様態も名簿には載らない。記録が一人について持つのは、たいてい一行だ。
昭和四十六年の綴は彼の最後の仕事ではない。彼の最後の仕事は、書庫がまだ必要としているものの全部だ。
差分
訂正の代金について書く。十月になるまで、これを言い表す言葉を私は持たなかった。
最初に失われたのは署名だった。堤の未亡人の翌々々日の金曜、広場の銀行で通帳を再発行したら、「ご本人のお書きになったご署名と違いますね」と窓口の人が言った。私は口を開けたり閉じたりしていた。私の字は、母が平成元年のドリルで教えてくれた丸い入りで、変わる機会など一度もなかった。再発行票の署名は細く、右に傾いていて、私のものではなかった。一時間前に、自分の机で書いたものが。
その夜は台所のテーブルで練習した。田宮可奈子、田宮可奈子、田宮可奈子。手元を見ているあいだは全部私の字だった。言葉の中身を考えはじめると、傾きが忍び込む。ページの下端では、戸川の宿題を代筆している気分だった。
次に、雑に書いたものが全部そうなった。妹の誕生日カードは投函したのに戻ってきて、付箋に「これ誰?? 知らない人の字」。ドラッグストアの伝票のサインは二度流され、叔母の施設の書類は「ご署名が委任状と異なります」と受理されなかった。どれも急いで、外に出さなければならないもののために書いた。外に出たものは、全部彼だった。
訂正は続いた。「﨑」が「崎」で記録されて四十年、年金の給付が止まったままの機械工の分が、火曜に直った。旧姓のまま載っていた死産の記載が、一夜で直った。全部を真と認めた。この点は分かってほしい。訂正は正しく、必要で、窓口に来る人たちは「記録は変わりません」という一文を何年も受け取ってきたのだ。
監査の男は広田といった。仕事が上手い。それが問題だった。スキャンソフトは清書画像に置き換える前の生画像を一時フォルダに残し、広田はそれを保管した。監査官は差分を好む。十月二日、私は上の階に呼ばれ、机に二枚の印字を並べられた。「三日」。火曜の私の画像。「四日」。綴と証明の写し。十四綴だ、と広田は言った。閉じた綴に、茶色のインクがどうやって入るのか、と。
全部話す午後も、あってよかったのかもしれない。彼は十四綴を封印し、県は訂正前の画像に差し戻し、未亡人は墓石に使った千二百万円の返還を求められ、機械工は自分のものになったことのない表記で、また年金を止められる。「記録は変わりません」。広田の部屋で、私と彼のあいだに一時フォルダがあった。フォルダは薄かった。行政はサーバーを信じる。地下室を信じたことは、ただの一度もない。
清書前の一時ファイルが壊れた、と言った。書庫のサーバーは湿気た床に置かれ、タイムスタンプは滅茶苦茶で、八月に報告済みだと。彼はログを確かめた。ログは滅茶苦茶だった。一シーズン、何についても信用されずに過ごした人間は、小さな一つについてだけ、うまく嘘をつける。
その夜、一時フォルダを自分で空け、十四綴を最初から撮り直し、先頭に確認書を綴じて県へ納めた。優越する証拠と照合し、真実に相違ない。記録事務官が記入し、受理職員が真と認めた——私はそこに、いつものように署名した。つまり、彼がした。
要領は二つの手を要求する。戸川の手が訂正を記入する。私の手がそれを真と認める。二つの手が互いに何を払うか、要領のどこにも書かれていない。でも書庫は要領より古い。十四条の下を、算術が流れている。正しい記録が世に出るぶん、どこかの本物がひとつ引き落とされる。
自署
雇用契約書は、私自身の署名を残す最後の文書だった。三月、白手袋、母に教わった丸い字。十月の第二週、取りに降りた。額縁に入れるつもりだった。妹に、人間の証拠として送るつもりもあった。
署名は戸川になっていた。
いまは三番窓口にいる。市は十一月に私を正規で採った。初日、宣誓書が窓口のガラス越しに滑ってきて、私は楷書で一画ずつ、鉛筆を初めて持った日の丁寧さで記入した。楷書は疑われない。古参の職員は半分が楷書だ。
証明が誤っていて、証拠が別のことを言っているとき、私は誰とも争わない。書類を夜間の再照合に回す。朝には綴が直っている。公正で読みやすい字で。私はそれを、自分の書いたものと照らし合わせずに真と認める。
照らし合わせるものが、もう残っていないから。